読書は「ことば」の能力と「識字能力」によって成立する。
「ことば」とは本来音声を用いた人間同士のコミュニケーションの手段であり、人間の思考や感性の根幹を成すものである。
人間が「ことば」を修得するプロセスとして、一般的に生後1年半から2年にかけて急速に「ことば」修得する。肉声で話しかけられたことを喜怒哀楽の感情とセットで受け止め理解し、修得していくため周囲の愛情が重要となる。その後は成長に従って「ことば」から実体がなくても思い浮かべることができる「表象作用」を修得していく。
人間形成にとって読書が及ぼす作用として、記録された文字を読み取って自分の頭脳の中にイメージ化することで想像力がつく。イメージは視覚の映像だけではなく、「荒しい嵐」から聴覚、「新緑のかおり」から嗅覚、「美味しいごちそう」から味覚というように単なる映像より総合的である。想像力は「思いやり」につながり、人に対する「やさしさ」や「創造力」につながるため、もっとも重要な作用といえる。
また「考える力」を育み、特に記憶力、思考力、判断力のうち思考力は「ことば」の組み立てるのに読書がもっとも効果的である。
他に読書には体験を豊かにする作用がある。実体験は限られたものであるのに対し、読書は疑似体験を無限にできる。これは読書に限ったものではないがテレビゲームなどの場合、与えられた制限の中での思考になるため、判断能力を放棄することになる。その点読書は、読み取ったことを読者が考え、受け取り方が様々あり個人の考えが備わる。
知識や情報を系統的に理解するのにも読書は作用し、高度で複雑な内容や抽象的で思索的なほどくり返し読み、理解を深める努力をする。
以上私のノートとレポートから一部抜粋。
ということを踏まえまして。
読書というのは世界共通だと思う。
本を読まなくても文字を読む文化というのは今やどの国にもあるのではないでしょうか?
この際文字じゃなくても人間同士の「ことば」を使ったコミュニケーションがない国はないでしょ。
私がここで考えたのは「表象作用」のことなのだけど、
これはついこの間まで流行っていた「KY」ってことでしょ?
「空気を読む」「相手の気持ちや考えを慮る」ということが
日本では 当然のこと としてまかり通る文化です。
じゃあなんで全国に同じ材料(読書)を与えられても、
日本はその点に重点を置いたのかしら?
例えば米国。様々な人種と文化が犇めき合う国だからこそ、
自己をはっきりと主張するのはわかった。
中国でも話し合い、というか論争の文化だから相手と意見をぶつかり合うことで
お互いの距離を縮めようとするらしい。
日本に事なかれ主義が多いのは事実。
人と荒波立てたくないから相手のことを考えて接しようとするのは
もはや国民性なんだろうけど。
じゃあなぜそこまで自ら言葉を発することに臆病になってしまったのかしら?
地理的にそうさせたのかな?
ケンカして、距離を置こうにも島国だから置くにも置けないとか。
むしろ小規模な島国だからそれほど文化に相違なく、
言葉にせずともなんとなく考えが同じ様な人たちばかりとか。
それともあれか。
「ことば」というのは「文化」より後にできたものなのか。
人間同士のコミュニケーション(ことば)があるから、
文化が生まれたのだと思っていたのだけど、違うのかしら?
あー。
何を考えていたのか混乱してきた。
ていうか腹減った。
夏休み入ってから腹減ったの初めてかも・・・;
この時点で学んだこと。
「頭を使うと腹が減る」
「論旨を明確にしてから綴ること」
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